まいすぴんらいふ

これは僕が生きてきた証である。

舞台を見て感じたこと、役者のあり方。

芝居。

する側、見る側。

 

見る側として感じたこと。

気になること、演技。

聞こえづらいセリフ。一つでも、聞き取りづらいセリフがあるとその世界に入れない。

これは、芝居をする上での最低ラインだと思う。聞き取りやすいセリフの言い方。

がならない、早口になりすぎない。感情を込める以前の問題。

 

動き、見ている人が見やすい配置。位置取り。

細かい動きがたくさんあると気になる。

一つのセリフに一つの動きぐらいがちょうどいいのかもしれない。

セリフを放つときは顔も体も揺れることなく、ピタッと止まっていること。

 

セリフを言っている人の周りの反応。

どちらかだと思う。話す人だけが動いている。

話す人だけがばっちり止まっている。

雑踏の中で立ち止まると目立つ。

みんなが止まっている中で動き出すと目立つ。

 

役者として舞台に立つ側として考えなければいけないこと。

お客さんを常に物語に引っ張り続けなければならない。

そのためには?

お客さんにハテナを生みつづける。つまりは興味。

興味を引っ張り続けるには?

役それぞれにはセリフがある。

そのセリフの中で興味を引くことができるものが必ずある。

それを役者自身わかっていなければいけないし、それをどうゆうふうに放っていくかを考えなければならない。

ただただ、役のキャラ作りのための奇声や、話し方ではなく、なぜそういうキャラになったのかを明確に持って、なぜその言い方をするのかを明確に持ってやっていかなければならない。

 

役者は表現をする人だ。だが、それは自分が目立ちたい、すごいと思われたいとかそういうのじゃダメだ。

表現をするのはあくまでお客さんの心を動かすためだ。

動くのは役者の心じゃない、お客さんの心だ。

難しいなーー、

 

役者は物語の結末を知っている。

知っているが故にその方向へ行ってはならない。

本来はその方向に行くことすら知らないわけで、その世界の人間たちはそんなことが起こることも知らないわけで。

 

その先を想像するのはお客さんで。

お客さんの想像の先と、その世界の人間の想像の先とは違うわけで。

 

最悪な結末があったとする。

その最悪な結末を役者は知っているが、その物語の人たちは最悪な結末に自分から向かっているわけではない。

むしろ、希望を持って最高の結末を迎えるために生きて行く。

お客さんは物語が進むにつれ、最悪な結末を迎えるんじゃないかとゆうことを考え出す。

しかし、物語の人たちは最後まで最高の結末を迎えるために生きる。

そこに役者の最悪の結末を知っているが故の最悪な結末の悲しさとかはいらない。

 

お客さんの想像のベクトルと、役者(物語の人たち)のベクトルは違う方向へ進めば進むほど、最後にドカンとお客さんの胸に爆弾を放つことができるってこと。

 

んー、わかるかな?

 

そして、人が惹きつけられるもの。

それは心と表現の温度差であると学んだ。

 

悲しいときに笑っていれば

なんでこの人は笑っているのになにか違和感があるんだろうと、気になる。

 

心の温度差を人は察知する力が長けている。

普段の生活からそういうことをしているからだ。

なんでだろう?を産めばそのキャラに興味を抱いてくれる。

そうすると、そのキャラが輝きだす。

見かけ上のキャラじゃなく。本当の魅力ってやつ。